手塚治虫氏と赤旗

http://artifact-jp.com/mt/archives/200412/tezukaakahata.html
共産党シンパ、っつーか竹熊健太郎のblogの手塚伝説へのリンクがまとまっているのでメモる。
わたしは今でも一番好きな漫画家は手塚治虫です。手塚治虫が持つ左翼性っていうのは彼の作品に分かりやす過ぎるほど分かりやすく描かれていて、わたしが自分の事を(このご時世には冗談に聞こえるカモですが、誤解を恐れずに言えば)心情左翼だと思うのも小学生の時から読み続けてきた手塚マンガの影響があるのかも知れませんが、彼の生きた時代を考えれば敗戦〜戦後の生き方・行き方としてそんなに特異なものではないと思うんだけどなぁ。っていうかそもそも主義・思想なんてその人が生きた時代やその中での経験、感情の動き、他(者)との関係なんかで形成される部分がほとんどだと思うから、左だとか右だとか保守だとかリベラルだとかそういう表面上の違いをあげつらってどうのこうのと言うのはあんまし意味を感じないというか。それよりも、だったらその思想なり主義なりが形成される過程とか時代背景とかその人の内面とかに注目した方が、たとえそれが自分にとって唾棄すべきものだったとしても学ぶところがあるし、よっぽど生産的だと思う。ただ手塚治虫の事に関していえば、そんな左翼偏向云々なんかよりも、現代に繋がるマンガという形式をほとんど一人で完成させてしまった人が、その初期段階で既に娯楽性だけでなく政治性や思想性までも盛り込んでしまうほど表現を純化させていた事の方がよっぽど大事だと思う。その事に、例えばスカの時代からレゲエミュージックを作り上げた一人であるリーペリーみたいな人が、そのレゲエっていう枠をぶっ壊すような作品を作ってしまう事に感じるのと同じ畏敬と畏怖の念を覚えます。
例えばですが、革命とか革命へ向かわせる言葉に先立つものは大衆の不安や不満といった感情だったんだろうと思うし、それらを拾って言葉にした人がいたとしても、言葉になる前の感情を意味付ける形で言葉として拾う、というこの流れは不可逆的なものだと思う。その言葉から更に別の感情を抱くという事は大いにあるにしろ、その原初としては。もっと言えばそんな言葉になる前のモヤっとしたものも、モヤっとしたまま拾い上げる事ができるのがアートだと思う。


なんて事を今ドバっと考えたので、一筆書きしてみました。スンマセン。